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[2002/02/11] 生きると言うことに精一杯になれる瞬間

 ちょうど1週間前の週末は泊まりで八ヶ岳に冬山登山に行って来ましたが、冬山に行っていつも感じる事が一つあります。それは、そこには生きると言うことに精一杯になれる瞬間があると言うことです。
 普段日常生活をしている時には、生きていると言うことはごく当たり前のことで別に取りたててどうのこうのと感じることはあまり無いのですが、でも冬山のような厳しい大自然の中に自分一人をおいてみると、その自然の前には自分というものがいかにちっぽけなものであるかということ、そしてそんな中では人間は精一杯頑張らないと生きて行かれないと言うことを思い知らされるのです。
 そう感じることの出来ることが、自分にとってとても大切なことの一つだなとも思っています。

 例えばアイゼンとピッケルだけを頼りに雪の急斜面を登っていて、ふと下を見ると自分の立っている雪の斜面がすーっと数百mも谷底に落ちていて、ここでこけたらもしかするとあそこまで転がり落ちるかも知れないと感じる時、まさにそんな時は日頃感じているいろいろな思いや雑念は全て頭の中から消え失せて、今生きて行くことに精一杯となって他のことは一切考えられなくなります。この厳しい大自然の中では人間はなんてちっぽけな存在なんだろうとしみじみ感じさせられ、そしてそんな自分の仕事や人間関係の悩みなどは、今生きるという事に比べるといかにちっちゃな事であるかというのも思い知らされるのです。
 まあ客観的に見れば、例えば八ヶ岳は冬山と言っても北アルプスとかと比べると明らかに危険度は低いですし、実際にピッケル無しのストックだけで登っている年輩の方も見かけますし、いわゆる冒険家の経験する極限状態と比べるとなんて事は無いのかも知れませんが(^^;、でもそれでも雪の急斜面で足を滑らせれば滑落の危険性は十分ありますし、自分にとってはその一歩一歩がまさに生命線上を歩いているに等しい気持ちではあるのです。ここで何かあると自分は死ぬかも知れないと言う、全身の神経がぴりぴりするようなそんな状況は、さすがに日常では滅多に経験出来るものではありません。
 じゃあ、なぜそんな多少の危険を感じつつも冬山に行くのか、それは...そこには冬山でしか経験出来ない景色と空気とおいしいビールがあるからなのかもしれません。
 そして同じ思いはカヌーで激流を下る時にも全身に感じる事が出来ます。